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林道
林道

​巡り合う

​真天道に

​必ず

​本物ならば

​求める心が

永松統賢 御講話 より

桜の花びら

天道では偶然は存在せずすべては必然といわれている。 因果応報は的確にやり取りがなされ間違うことはない。 故に今皆がここにいることも必ず明確な理由があるから。

緑と紫の多肉植物

我々は幸福に成るために存在しているのか否か。それは当然に幸福に成るためでしょう。人は幸福を求める為に生まれてきたのであり、天は人に真の幸福を求めさせる為に世界を創造されたのです。そして、天は我々を道を持って導かれ三宝を与えられたのです。

牡丹の花束

天道は人の心を媒体として伝えられる訳ですので、現地の習慣や価値観を尊重して、天道と融和を図り、多様性のある豊かな人間性と文化を柔軟に吸収、保持しなければなりません。それ故に最終的に目的とするもの、つまり天命と中心を具体的かつ明快に認識することが絶対に必要不可欠であるのです。

白い花

自分自身を信じ、天を信じて天道を求めるべきです。そして我々の未来を信じ、未来への扉を我々自身の手で開かなければなりません。最も暗い闇に閉ざされた時代は同時に最も光輝く時代の前触れでもあるのです。仮に、もし天道を求め天命を守れば素晴らしい人生になりましょう。

花壇

本当の自分自身とは全ての人々の幸福を願う存在であります。そのことを多くの人々が目覚めた時、この世界が理想へと向かうのです。人が何故、生まれてこなければならないかがわかるでしょう。 しかし、それには天道の三宝を得なければなりません。そこに絶対的な救いと天の愛情の具現があるからです。

花

良き天縁に恵まれ、天道に巡り逢って正しい信仰を得たとします。その時、信仰の対象は完璧である訳ですが、仮に、もし自分の信仰心に問題があるとしたならば、道を信じる心を最後まで保ち続ける事は難しいのです。  正道に巡り逢うことが最も大事であることは間違いありません。しかし、自分の中に本当の信仰心を持つことが出来ず、それが故に道を失うことが起こる可能性があるとするならば、真に重要なものは自分自身の中に不動心を確立し、しかる後に正しい信仰を持つことではないでしょうか。この場合、不動心とは自己の本性と道の中心を明らかにすることであり、正しい信仰とは自分の信仰が中心に向かっていることを指します。

花びら

可能性が有る事と、必ず創り上げることが出来る事とは、若干、違いがあります。客観的に現状を見て、現在の我々で直ぐに理想の組織機構を創ることが、果たして可能でしょうか。必ず創り上げるとの覚悟で着手しなければならないのは当然です。しかし、想いのみで現実の裏付けがなければ創り上げることは出来ないはずです。なぜならば、天は我々の成長を望んでおられるからです。限りなく、大きく、優しく、同時に厳しい、それが天なのです。

花

もし一旦、三宝を失えば再び三宝を得るには、如何ほどの歳月と困難が必要とされるか想像出来るのではないでしょうか。故に、我々は、この好機を逃すことなく、真の幸福とは何かを認識しなければならないのです。何を持って幸福とするか、不幸とするかは各々の心次第です。しかし唯一、絶対的な幸福は天道のみ有します。

花

天縁、地縁、人縁が揃って天道は伝えられます。天縁とは時運を指します。地縁、人縁とは、例えば、約束された土地、日本に恩師の天命を担われた慈護眞君が訪れ伝道されることもその一つであります。これら三つの要素が全て揃って天道は広く伝道することが可能となるのです。そして今後、天運の流れに従い、我々は人縁地縁を世界の隅々へ、全ての人々へと広げなければならないのです。慈護眞君の志を接ぐとはそういうことなのです。

桜の花

一人では歩むことが出来ない道でも皆で力を合わせ助け合い歩むのです。自分一人では歩むことが困難な道も、志を等しくする人と共に歩むことで不可能を可能とするのです。

紫と黄色のパンジー

得道された方には、この古今無比の最高の宝をこれほど簡単に得てよいのかと、首を傾げられた方もおられたはずです。しかし、他方で三宝は実に失いやすい一面もある、との認識を持つ必要があるでしょう。得道は一見、簡単に見えますが、実に六万年の歳月と様のご慈悲を蒙って、我々はこの宝を得たのです。

黄水仙

天道を軽く見て油断することがあってはなりません。己一人の器量で道を測るべきではないのです。道理に明るいだけではなく、信じ難きを信じ切る純粋な信仰心も併せ持つ必要があります。道の力を信じて頂きたいのです。

花芽

普伝が始まり天道の三宝が世に公開された時、複雑に絡んだ因縁も極めて単純に、真理に近いか遠いかで善縁の有無が見分けられます。如何に善根が深く善縁を繋いでいるかは、天道に近いか遠いかによって、是非は明確に大別されます。正法が顕れた時に様々に存在していた価値観は、天道に対しての縁の深浅によって単純化されていくのです。三宝は末法の世に降された善悪分判の正法なのです。

野生の花

もし貴方が人の目を気にして、人に認められたくて天道を行うのであれば、人から敬われ評価されて、それで貴方の目的は果たされたことになります。これは簡単な道理です、人は大いに褒めるかもしれませんが、天がそれを認められるかは別の問題です。人と天の評価が異なることは決して珍しいことではありません。もし貴方が天に認められたいのであれば、人の知らないところで下座行を行うことが最良の方法と成ります。

ヒナギク

現在は新しい時代の到来を前に必要な準備をする時と考えます。本来、無駄な者は一人としていないはずです。しかし、もし不必要として道から遠ざかることがあれば、それは誰でもない本人自身が選択したことと了解して頂きたいと思います。

トマティーヨ工場

天は、自分自身の救いを求めて天を信じる心より、人を救わんとする心を、衆生に示すことを願っておられます。そして、古今未曾有の大災難を超えて、真の慈悲心を我々伝道者が持つようになることを天は望まれておられるのです。

コスモス

よく本音と建前と申します。より多くの人々が幸福であることを正しいと認める一方、自分より幸福そうな人に対して、妬みの心を同時に持ってしまいます。人間である以上、誰しも心の中に矛盾した部分があります。何れが自分の本心であるのか、其処で葛藤が生まれるのです。よく心の中の天使と悪魔が綱引きをして、互いに自分の方へ我々を引き寄せようとする場面が小説やドラマで描かれていますが、正にあのような状態と言えます。そして我々の場合は、大抵は悪魔のささやきの方が天使の叱咤激励に勝ることになります。

タンポポの葉

古の聖人や道統の祖師は「先修後得」の修道法で道を求められたのです。つまり先に道を修め、その結果で道を得ることが出来たのです。しかしながら、得道もしないで道を修めることは、非常な困難を伴います。従って得道が出来る方はとても限られていました。時運次第では天道が隠れてしまい、道を求めようにも得道が出来ない時もありました。例え何百万という修道者が道を求めても、一人も得道が叶わない時代もあったわけです。如何に難しい苦行を乗り越えて、過去の聖人や道統の祖師方々が道を得られたのか、想像できるのではないでしょうか。 修道の功果が円満となり、道を求める心が最高潮に達し、天がその真心に応じた時、三宝は降されたのです。得道以外の望みを全て捨て去り、生命を捨てる覚悟は、当たり前の最低条件にしか過ぎません。死ぬより苦しく辛い生死の境を何度も潜り抜けて求め続けた結果、道を得られたのです。

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